nelobo the heterotopographer

明日12月1日からはじまるnelobo|Heterotopiasについて書きます。


「地域に介入しその場所固有の素材や技術を使いながら建築していく建築家」であると彼らのことをあらかじめまとめており、それそこが彼らの特徴だと想定していたのだけど、もう少し違う、彼らが持っている一貫した目線のようなものがあるような気がした。それは端的に言えば「均そうとする力に抗うアイデア」を大事にするということだ。


大きなところで言えば、いわゆる「いまだ開発されざる」地域が機能主義的な都市計画によって土地固有の空間構成が破壊されてしまう、という文脈。建築史的な語りによって「ユートピアの失墜」だとか「計画の失敗」だとか言われる事例ではあるが、そこには当然のことながら人が住んでおり、ゆえに「失敗」なんていう簡単なまとめ方ではそれを語ることができない。現実はもっとブヨブヨしている。「均そうとする力」をまともに食らってなくなったもの、なぜかするりと交わして残ったもの、かろうじてまだあるもの、そういういろんなものが混在したまま「地域」をつくっている。「均そうとする力」aka「開発」というのは、地域を「都市」という一枚の皮で覆おうとする運動のことなのかもしれない。


これはなにも遠い地域で起こっている彼岸の火事なんかではなくて、例えば京都でだって起こっているし、パリでだって、ソウルでだって起こっている。だからneloboは「先進国」だとか「発展途上国」だとかいう区別を信じない。さらにいえばその区別を有効なものに見せかける「発展」という考え自体をうさんくさいものだと思っている。neloboが目を向けるのは、むしろそういう「どこにだってあるブヨブヨした現実」から生まれてくる「その場所固有の」アイデアだ。そのアイデアは誰に帰属するものでもない。ときどきはneloboに帰属するし、ときどきはneloboによって見つけられたその辺の人々に帰属する。


そうそう、だから彼らの試みは、例えばここ京都でだって例外じゃない。「QueryCruise vol.2」で加藤政洋さんと行ったまちあるきは、まさに現代日本的「開発」によってないがしろにされんとするかつての土地の記憶に当たっていこう、というのがそのコンセプトだった。でも、都市の一枚皮をはぎながら「ここは昔こうだったのだ」という一枚岩的な「実は」のストーリーをみんなに知らたかったわけじゃない。そうじゃなくて、「ここはこの時代までこうだったっぽいんだけど、一本通り挟むとこうで、ここはこのように文学になって、一方あっちの方はこうでさ...」という具合に、その一枚皮をはいだ中には、なにやらよく分からないブヨブヨした記憶の混在があるのだ、ということが言いたかったのである。


そんな加藤さんとしたまちあるきのタイトルは、図らずも「ヘテロトポグラフィー」だった。この場所でしかないけど、でもここではない場所。「ヘテロトピア」というのは多分、都市の一枚皮をはいだあとのブヨブヨした何かをそのままブヨブヨしたものとして直視しようとするときに見えてくるものなんじゃないかと思う。それを「記して」いくことがヘテロトポグラフィーだとすれば、「都市の一枚皮」をはいだブヨブヨの何かからポロッと見えてくるアイデアを拾っていく、フィールドワークの人たちneloboもまた、ひとりのヘテロトポグラファーだと言えるんじゃないかなと思うのだ。