問題を解決することと、要求を実現すること


ちょっと詳しくは分からないのだけど、どうなんだろう? と思っていることを書きます。それは、地域再生(とか地域振興、地域活性化、まちづくりなどなど)の取り組みは「地域にはこういう問題があって、それを解決しよう」という論理で行われるのか? あるいは、「地域にはこういう要求があって、それを実現しよう」という論理でおこなわれるのか? あるいはその両方の論理でおこなわれるのだろうか? ということ。


というのも、前に地域再生書籍の主旨構造が「問題→解決」モデルになっているのではないか、ということを少し書いたのだが、実際の取り組みがそれと同じであるとは思いづらい。そこには「問題→解決」モデル他に、例えば「要求→実現」モデルみたいなものがあってもいいんじゃないか。まあそんなスパッと区分できんだろう、という異論には大賛成だが、こういう話の行きがかり上すっぱりと分けます。あとあと、その二つは同じことなのではないか、と思われる向きもあろうが、でもどうなんだろう。「座れない(問題)=座りたい(要求)→椅子ほしい(解決&実現)」など、あてはまる例は確かにあるが。


もうすこし引いた目線で見てみると、例えば空洞化、スプロール現象シャッター商店街、こういう「大問題」が、大抵の地域が抱えている問題としてある。そしてそれは「解かれるべき問題」とされていて、実際そうなんだろうけど、でもその解決がただちに「その地域の人に求められていること」かというと、そうなの? という気持ちになる。地域に「何が問題ですか?」を尋ねることはたいへん重要なことだと思うんだけど、でもそれはその答えがつまり「何が欲しいですか?」と同じことであるとしてしまっていいんだろうか? 例を挙げてみよう。「老朽化から倒壊の恐れのある民家や空き家が京都市で増えている問題」は「建て替え」が解決とされるけど、でもそこに「なんとかして前の家を残したい」っていう要求があったっていい。


何が言いたいのかというと、「要求」は「問題」を前提としていて、だからその二つは同じだと思われがちだけど、でも違うんじゃないの? ということ。事実「問題」をこしらえれば変化の機運にもつながるから、大抵は「ここが問題だから、それを解決しましょう」というモデルで人は事を運ぼうとする。だから注意しないといけなくて、それは実際には「問題→(要求)→(要求の)実現」という形をとっているかもしれない。だから、「要求」の実現の仕方はいろいろある(あった)はずなのに、「問題は解決されたからいいじゃない」ということになって、なんとなくこんなはずじゃなかったとか思ってしまったりすること、結構あるんじゃないかと思った。