On the Moon by Arjen Oostermanその3


Volume#25 Getting there, Being here
その2から


エージェン・オースターマンによる序文。このテキストで言われていることは、ここで問いたいことは「月における建築とはどのようなものか?」ということだけじゃないんだ、ということだろう。つまり、社会的状況の変遷や技術的進歩によって月がすでに他の惑星とともに選択肢のひとつとなった現状、「ここ」というリアリティとともにある「ここじゃないどこか」というそれをどう考えるか、ということなのだ。人がなすことであるわけだから、「そこへいく」ということや「そこにいる」ということにも文化は入り込む。じゃあそのとき建築に何が提供できるんだろう? ここで問おうとしていることは、こういうことだと思うのだ。もちろん私たちがなせることに制限はかかってくるだろう。だから私たちにとって勝手知らぬ状況の中で、私たちに何ができるのかを問うことには意味がある。


これは未開の地をどうするか、ということじゃないだろう。むしろ「未開」というか「勝手知らぬ状況」がある、というリアリティを現在のそれと相対化しながら、どのように生きていくのか、ということがここで考えられるべきことだと思う。

宇宙/空間のためにデザインすること、これは基本的に問題を解決することである。とても難しいことだ。ロケット、オービター(軌道船)、宇宙ステーション、そして着陸船、これらは与えられた解の帰結であり、それが示すものである。デザインされたものというよりも、発展させられたものだ。驚くべきことなのだが、ソビエト時代、宇宙デザインプロパーの小グループが、心理学、すなわち感覚や「心地よい環境」というようなソフト的な考えに取り組んでいた。現在の長期滞在型ミッションのための準備調査において、こうした側面は再度浮上している。懐疑的な人なら、これは真に性能不安からくるものだと考えるかもしれない。つまり、人々は、心理学だとか感覚だとか心地よさだとかを考慮に入れれば、よりよいものを生み出し、より信頼でき、より効果的に動く、と。もっと楽観的な読みになると、たとえ宇宙旅行にあっても、人がすることであることには変わりない、というようなことになるだろうか。そこに例えば、文化が忍び込むのだということを知るのは魅力的なことであって、それはそうやすやすとは排除し得ないものなのだ。


じゃあ、建築は何を提供したらいいんだろう? どんな知識を? どのような情報をそのミッションに付け加えることができるだろう? そしてこれは地球上の建築の役割について何を伝えてくれるんだろうか? もう一歩踏み込んでみよう。これは私たち自身について、私たちに何を教えてくれるんだろうか?


歴史はドラマチックな転回に溢れている。でもこれはそのひとつでしかない。地球について学ぶことはひとつの手であって、他の惑星(か月)に行くこともまたひとつの手だ。それは私たちが何者であるのか、私たちはどこに属するのかという考え方を変えてくれる。私たちが何をなし得て、何をなし得ないかを決めるパラメーターを変える。そしてそれは人類の終わりなき好奇心を、境界や規制や制限の裏にあるものを見ようとする私たちの努力を示してくれる。その奮闘はアリシア・フラミス(Alicia Framis)の月生活調査を駆り立てるものでもあった。フラミスによってつくられた、月での日常生活のための最初のプロダクトカタログがこの号に付いている。それはデザインの想像的なキャパシティを遊び半分にテストする。私たちは本当に他の暮らしを想像しうるのか? アリシア・フラミスは冗談めかした方法で、デザインのキャパシティを彼女の月生活プロジェクトでもってテストするのだ。