マチュー・メルシエ(Mathieu Mercier)インタビューその1


マチュー・メルシエの作品を見たのは、いまのところ「SuperWindowProject」、「Muzz」、そして「森美術館」(フレンチ・ウィンドウ展)にて。美術史へのリファレンスはもちろん、建築への目配せがちらほらと見えるところが興味深い。彼にとっての「建築的」とは、それがどういうところなのかも含めて、考えてみると面白そう。四角いボックスを布で被覆した建築物に見える作品、リートフェルトへの参照が明らかな棚?(っぽいインスタレーション)、郊外的な一軒家にガススタンドのような架構を重ねるというプロジェクト。工業化というかつての夢と現在のその成れの果てが悪夢的に具現化されているような、ちょっとドライでちょっとブラックな印象あり。とまれ、コンテクストの想定がユニークであり、コンテクストの突合せ方が特徴的だと思う。以下は彼の作品集に収録されたインタビューです。


マティユー・メルシエ(Mthieu Mercie)インタビュー
聞き手:ジル・ドローナウト(Gilles Drounault)


Mathieu Mercier

Mathieu Mercier

  • 作者: Mathieu Mercier,Michel Gauthier,Delphine Coindet
  • 出版社/メーカー: Jrp Ringier Kunstverlag Ag
  • 発売日: 2007/03/01
  • メディア: ペーパーバック
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3月31日金曜日。バスティーユ広場にて。午後7時で外はまだ気持ちがいい。私たちはテラスに椅子を出して座っている。スクエアには人だかりが。とりわけ多くの若者たちでごった返している。共和党党首のテレビ演説を待っているのだ。私たちはマティユーの仕事の話へとうつる前にそのことについて、そして学生運動、抗議デモ、ストライキ、政治について話した。自然と私たちの議論はこうした親密な会話の色をいくらか帯びることになるだろう。

マティユー:
私が興味を持っているのは、芸術の領域にしっくりくるかたちを生み出すことだ。それと同時に、その領域が属する社会的政治的な世界に疑義を呈すようなかたちを生み出すこと。デザイン、建築、都市計画等等に関わる問いを呈すること。「どのようにして人はプライベートな空間に住むのか」あるいは「どのようにして人はパブリックな空間に住むのか」、こういうシンプルな問いをね。多かれ少なかれそれは知覚可能なものとなり、また直接的なものになることははっきりしているんだけど...

ゴダール彼女について私が知っている二、三の事柄」のような映画を見るとき、彼がどのようにして社会的なリアリティを描いているのかにばかり目がいくんだ ―彼は当時パリで何が起こっていたのかをきわめて正確にとらえている。彼の映画は証拠であって、後に続く数十年に起こる諸問題をそこに見ることができるわけだ。そして同時に、彼はシネマの可能性を押し広げるような形式的解答を見つけた。どのように人はスプロール現象の帰結を、不十分に計画された建築の帰結を示すのかを。そしてそれが人のふるまい方に何をもたらすのかを。


ジル:
社会的領域を問いながら、新たなかたちを生み出すこと。これを君はどう考えているのだろうか。


マティユー:
同じことだよ。新たなかたちを生み出すことは、不可避的にそれが現れる文脈を疑うことでもある。一言で言えば、芸術は社会(あるいは社会的な問題)の反映とならなくてもいいと私は思っている。というのも、芸術は社会の中にあって ―外側ではなく― 、いくつもの勢力の対立と常に相互作用しているわけだから。私の作品の中で気に入っているものはそうやって想像されている。つまり社会的政治的な生にとって重要な問いかけから想像されたものなんだ。ただ私はヴィジュアルアーティストだから、それらの問いは形式的な方法で浮び上がってくる。たとえば、ポンピドゥーで展示をしたとき、産業的な色を持たされた歯車の一部である支柱は「スペース315」の天井に消えていった。この文脈では、私はポンピドゥーという文化的機械に結合された機械の部分として、それらの支柱を見ようと思う。私が示した参照源―たとえばマルセル・デュシャンの作品―を超えて『チョコレート・グラインダー』に到るまで、展示された芸術作品が社会的政治的空間に関係付けられ、それに賛同の/反対の言葉を持つ、というひとつの見せ方になる。

わかりきったことだけど、もし自分の作品が社会を問うことに対するたったひとつのリアクションだとしたら、私はきっと満足しないだろう。社会学あるいは政治学の研究に方針を変えるだろうね。

こう言う人もいた。支柱は芸術を制作するということの究極的なあり方に関する問いへとかたちを与える方法でもある、と。「芸術作品は人に精神的、美学的、倫理的、そして思索的建築を持続させる対象であり、思考の、指示の、示唆のための機械として機能する。ゆえに「はめば機械」は…」こういう見方はあまりにも説明的に過ぎる…でも芸術作品がこの種の議論に私を引き込んでくれるっていうのも悪くないな。作品がディベートのためだけの方便にならなければの話だけど。

支柱は、私の作品のほとんどすべてにおいてそうであるように、総じて分析しようのないかたちを見つけたいという欲望でもある。私にとって重要なのは、否応なく一定の強さを保っているように見え、それでいておいそれとは納得できないようなアート作品を実現することなんだ。ただの現前というか…


ジル:
強度と現前という考えにはこれから何度か戻ってきそうだね。ただ今は君の作品を貫く社会的秩序の問題、そしてポンピドゥーでの展示の話を続けたい。「スペース315」で君が展示した作品の話にまた戻ろう。すなわち建物の「9:10建築家」モデル。君がこれについて多くを語ったいくつかのインタビューを読んだのだけど、その作品は満足いくように分析されていないと思う。


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