マチュー・メルシエ(Mathieu Mercier)インタビューその2


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マティユー:
特定のディベロッパーモデルが持つスケールを変えることは視座を変えることであり、それに疑問を持つことだ。あたかも拡大鏡を通して見ているかのようにね。住宅に関するその考えは、公共空間もそうだが、住まうことや建築についてのさまざまな考えから生み出されることははっきりしている。

パブリックな空間はイデオロギーをもたらす。都市のかたちやその重要性は、自動車交通に、その対極にある、都市の中心における純粋な歩行者道路の増加や郊外の居住区に与えられたものであり、これら全てがある一定の住まい方に帰結するかたちを生み出すんだ…

ただ私は、それが仮定する消費のモードに関連するだけの作品は生み出さないけどね。


ジル:
その作品はきわめてブルジョワ的な生活スタイルの批評としてよく解釈されている。「下層中産階級のためのスコーン」について語るものもいた。


マティユー:
そういう言葉で自らに問うたことは無いな。興味が無いんだ。「下層中産階級」とあったが、それはまさにマーケティングディベロッパーの語彙であって、私の性にはまるであわない。スケール上の変化(私にとってラボでの仕事と同じことだ)をスコーンとして解釈するということは、それを芸術制作の実験から締出そうという願望が暗に示されている。それは他の成果とあわせて、それが強いる文化の生み出され方や美学を問わんとする願望だ。それはより一般的な対話を、より政治的だと思われている対話を望んでのことだろうけど、でもそれを可能にする文化のなりたちにはまったく疑義を呈することがない。思うに、芸術への嫌悪はしばしば政治的に関与する芸術についての曖昧な対話と混ざり合う。政治に関与する芸術を求める者と、芸術家は制作の対象を政治家によって濫用された対話に限定せよと主張する人は基本的に同じ人間なんだ。彼らはアーティストに政治的な議論のテーマを素描してほしいと思っている…

私はそれ以上を芸術に期待している。芸術家は議論の状況を決定する役についていると信じている。芸術家は対話を生み出すのではなく、対話が差しはさまれるようなかたちを生み出すんだ。そうだろう。芸術家は対話にかたちを与えるのだから。まして彼らは対話について直接的な帰結を持っているようには見えないからね。

ポンピドゥーでのあの展示は「虚栄」というテーマのもとに位置づけられている。それはしばしば私の作品に浮かび上がってくるテーマであり、パリの現代美術の殿堂となっている場所の「虚栄」とも読めただろう作品を生み出せたことは、私にとって、興味深いことだった。

あの家は展示の中心に置かれた「おとり」であり、アイキャッチであって、人を引き寄せるし、その中へ入ることもできる。それで…その内側は空洞だ。中に入っていったとしても、そのヴォリュームのからっぽさしか見ることができないというわけだ。


ジル:
君の作品はミニマルアート、ポップ、構成主義等等に強く関係していると見られているが。


マティユー:
私にとってそれは、公共的なものとの接点となっていたかつての作品や芸術家への明白な参照なんだ。こうした参照が作品に表れている。なぜならそれらは私の生活に現れているし、ほとんどの時間、観者の生に現れているから。それらはランドマークのようなもので、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。参照は決して目的そのものにはならない。せいぜいかたちの歴史へのつながりを組み立てるための手段くらいのもの。たとえば、『ドラムとベース』シリーズはあきらかにモンドリアンを参照している。でも結局その参照は、私にとって、その作品をつくりだすきっかけになった今日の消費対象にまつわる参照ほどの重要性をもってはいない。


ジル:
君の作品は、直接的な歴史的参照とますますつながりづらくなっているという点で、よりラディカルになっていると感じられるのだけど。


マティユー:
作品がどんどん抽象的になっている、というのはよく言われる。同じことのような気がするな。芸術への参照は日々の生活にある対象への参照のようなもので、観者との「共通のつながり」を生み出す手段なんだ。でも私は他の解釈もとりたいから、その「共通のつながり」が作品を熟慮するなかで消えていってほしいと思っている。思うに、たとえ曖昧な形であっても、そして初見では受け取りづらくても、そうした参照は常に私の作品に表れているんだろうね。


ジル:
最初のほうで私たちはかたちについて話していた。君が自らの作品制作の中で発展させてきた、かたちやかたちなきものについての、もうひとつの弁証法がある。


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