マチュー・メルシエ(Mathieu Mercier)インタビューその3


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マティユー:
私たちが今まで話してきた問題は、実に多く私の作品に表れている。話してきたとおり、私は自らの作品をかたちの問い直しからなるものとして見ている。でもここでもう一度、私を導いてくれるひとつのシンプルな問いを立ててみよう。組み立てられたものと集められたものとではどう違うか? かたちなきものと、かたちづくられたものとでは何が違うか...これは私が「石膏の杭」と呼び、ジュリアン・フロンサック(Julien Fronsacq)が「墓」と呼ぶ、作品のある種の主題だ。私の作品に割りとよくあらわれてくる物事の進め方として、ひとつの同じ作品において、パラドックスみたいだけど、スムースな仕上げを施されたかたちと、かたちなきものとをどのように併置したいか? ということがある。鏡面仕上げを施された台座に置かれたコンクリートの鋳造物みたいに。ときどき、その結果と対照されるものこそその参照だったりする。『いまだ無題(Still Untitled)』シリーズのように...


ジル:
ある種コラージュのように。


マティユー:
そう。それ以上に、コラージュは、知覚という私たちの習慣と私たちが受け取った智識との短絡として興味を持っている実践だ。最近のもので言うと、溶接でつなげられた巨大な鉄棒とペタンクのボールとで構成されたアサンブラージュ「大腿骨(femur)」がそれにあたる。私が好きなのは、どのようにして二つのオブジェクトがくっつけられたかによって、まったく異なった対象が生み出されるということ。それは根本的に異なっていて、それに形を与えたなにものかにとってもまったく見知らぬオブジェクトが生み出されるということなんだ。私たちはここでもう一度ゴダールを見てみよう。彼が不可思議な等式を思いついたときのことだ。1+1=3 これが意味しているのは、編集の観点から見たコラージュのかたちだよ。つまりイメージにイメージをプラスすることで、観者の心理に第三のイメージが生み出されるということ。

私はとても興味深くこれを見た。なぜなら私の作品は「無からオブジェクトは生まれない」ということを私に知らせてくれるからだ。生み出すとは常に考案することだ。物質を変形させ、再流用し、一緒にしたり、離したりする、でもそれらを何もないところから生み出しはしない。

レディ・メイドは芸術史の中でもっともラディカルな身振りだ。なぜならそれはもっともシンプルでもっとも経済的(私たちが言語の経済性を語るような意味で)だからだ。デュシャンはズレを発生させることでオブジェクトを変形させた。この創造的な姿勢は文脈の単純な変更からなっている。それは芸術作品の生産全体を、そして作品全体を、ある姿勢に濃縮していることになる。ある意味、人は世界に何ものをも足すことはできなくて、それを変形させるしかできないんだ。


ジル:
最後に、君の作品はより抽象的になっているという考えに、そして君が最初に話していた、作品の現前についての話に戻りたいのだけど。


マティユー:
私は自らの作品が過度にリテラルに見えすぎてほしくないし、すべてをコメントし尽くしたくもない。興味があるのは、異なったレベルにあるいくつかの読みをひとつの作品に濃縮することだ。観者は、それが個人的なものであれ公共的なものであれ、日常生活の観点から、しかしまた同時に歴史的な観点からそこに響いているものを認められる。それは芸術の領域に文脈付けされたとき、どのようにして作品は意味を獲得するのか、ということでもある。私が「芸術の領域にしっくりくる」と言ったのはそういうことなんだ。つまりどのようにして芸術作品は芸術の領域で意味を生み出すのか、そしてより広い社会的領域の中で日々の関心を反響するのか、と。でもそれと同時に、その作品はあらゆる解釈に耐えないといけない。そのかたちにおいて単純化できないものとして、こう言ってよければ、作品のポエトリーとして残るんだ。

芸術作品の単純化できない部分は、「それはいったい何なんだ?」という質問からはじまる。それを解釈しようとするんだけど、しばらくして、その努力に抗うものをはっきりと見ることになる。それはある意味で純粋な現前なんじゃないかな。そこに何か神秘主義的なものを見るんじゃなくてね。物質的な現前、解釈しえない塊が。


ジル:
キューブリック2001年宇宙の旅」のような?


マティユー:
キューブリックモノリスっていう読みは神秘主義的だな。個人的にはもっと詩的な性質を持っているんだ。それはお望みとあれば、詩的なオブジェクトが唯一それ自身に言及しているようなオブジェクトである、という点で、ということだ。おかしなことだよ、だって私たちはジュリアン・フロンサックと「大腿骨」について話し、それから「2001年宇宙の旅」を持ち出した、とりわけ道具となる骨を猿が投げた瞬間のことを...そして私たちは想像的な姿勢へと戻る。ひとつの文脈から他の文脈へと、ひとつの目的から他の目的へ...オブジェクトを再流用し、骨を道具へと変えるんだ...