Volume#27 Fight and Accept 後編


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これまでの「老いたあとどうするか」モデルに対して「現象としての老いをどうするか」モデルがここで具体的に問題とされている。まず前者。働いている人にとって老いた家族の面倒は負担であり、そうした生産の抑制となりかねない義務から家族単位を自由にするために、例えば老人ホームはつくられた。でもこれはまさしく「機能しなくなった身体部分を取り替える」ような操作に等しい。問題は二つ。そんな金のかかることこれからも続けて行けるのか? もうひとつ。老いた家族にも可能な生産体制は考えられないのか? こうした考えの向こうに「現象としての老い」にどう対処するかという問題がある。言い換えると、社会の中で問題を抱えるとされる個別の状況に対してそのつど解決策を与えて行くのではなくて、今はそうした現実を持続的に許容するようなひとつの環境が強調されるべきだ。


この序文で言われていることは、「老若」の再統合が目指されるべき、ということだ。機能しなくなった身体部分は取り替えればいい、と考える人は「永遠の若さ」をほしがって、生産の現場を若い人たちだけに任せ、そうやって社会全体を「若く」しようとする。でもちょっと立ち止まって考えるべきことがあるんじゃないか。そこで盲目的に目指されていた「永遠の若さ」って、本当に価値あることか? その「永遠の若さ」の代償は、「老いたもの」の隔離にあった。古建築保存がちょっとずつ市民権を得て行く中で、古いものと新しいものとの共存のさせ方に価値が認められていくように、隔離じゃない、「老若がともにどうあるのか」に関するデザインが求められるはず。


こうした問題を裏返すと、過去に「さしあたっての対処」として出された解決策にちょっとほころびがでてきて、それを今どう更新するのか、という問題設定が見てとれるかもしれない。こうした視線は、21号ブロック特集における、公共住宅大量供給問題の見直しや、24号カウンターカルチャー特集における、60年代の残滓を今どう考えるかという問題設定にも見られるかもしれない。当たり前だけど、過去は現在につながっている。でもそれは忘れられがちなことでもある。「さしあたって」が思いのほか長く続くことになったり(戦後復興のための道路がなぜかまだつくられていたり)、かつてのドリーミングな解決策が実は悪夢のような現実を今もたらしていたり(アスベストとか原発とか)する。そういう構図を持った問題は様々な形で、僕らのまわりにあると思うのだ。

こうした発展の社会的、空間的な含意を想像することは難しい。が、それが現実になるまでにじっくり考えるための時間はいくらかある。その間、私たちは(労働人口の数に比して必要なケアの量と強度にともなう)変革のシフトの中にある。マネージャーはここにこそ姿を現す。WW?後、西欧は福祉国家の建設に動いた。生涯にわたって、全ての人に、必要最小限のものが、保証されている。リタイアメント、公的年金、そしてもちろん税金とあわせて。そのモデルは世代間の連帯責任をベースにしていた(し、現在でもそう)。労働者はその両親や祖父母のケアのために金を払う。それは伝統的な社会において子どもが高齢家族の面倒を見る、という話と違わないのだが、今ではそれが総体としての社会というレベルに影響を与えている。この社会的なお膳立てはそれなりの代償を払う。人口の労働者部分は生産へと寄与することをいかなる形であれ抑制されるべきではない。だから高齢者ケア施設は、家族単位を、それが負っていた慣習的義務から自由にするためにつくられた。留保された見せかけの独立のもとに労働を経済化すること(両親は大人になった彼らの子どもと一緒に引っ越しをしたりしない)がモデルとなっている。その結果、一分の人口の疎外や隔離が生まれた。問題としての高齢、本当の社会的なお荷物は(生産というパースペクティヴから)管理され解決されるべきだ。オランダやその周囲の国家において、こうしたお膳立てにかけられる(財政の)限度は、1960 - 70年のリタイアした世帯(とコスト)の数が爆発的に増加するなかではっきりした。80年代の中盤になれば、政策におけるドラスティックな変化が生まれる。65歳以上のすべての市民に部屋を与えるのではなく、施設から人を離し、なるべく自分の家にいてもらおうというのが政策の意図となる(そしていまもそうだ)。中間にあるケア施設、そしてそのタイポロジーはそうやってまるごと導入された。次なるターゲットはリタイアそれ自体だ。近代社会における学習段階、労働段階、そしてリタイア段階の分析モデルは、より持続的でより包括的なモデルに取り替えられる必要がある。高齢者人口と(可能な)生産とが再び結び合わされ、社会全体における再統合がなされるべきだ。「受容」はここではバズワードだ。私たちはそうした変革の最中にある。


このパラダイムシフトはあらゆる種の変容をともなう。ひとつの住宅から人々の個別的な状況(ひとり暮らし、家族、エンプティ・ネスター【※子どもが巣立った親】、リタイア組、ケア異存)に対する次なる異存へと移行するかわりに、今はそうした現実を引き続き許容するようなひとつの環境が強調されるべきだ。これは社会的な視点から見た、サステナビリティに対するまた別の見解である。建物は伸びたり縮んだりしないわけだから、それとは別の柔軟性が求められる。都市もまた同じ。人口構成(年齢グループや収入別の階層)におけるシフトが経済的社会的現実を変化させるのである。


社会が直面するもうひとつの課題は、認知症、様々な物理的機能障害、ハンディキャップを持つ高齢者数の急激な増加に対する配慮だ。老人ホームは現在デフォルト施設ではあるが、こうした病院のようなエンドステーションは、いまだ判断力がしっかりしている人にとっては恐るべきシナリオとなっている。興味深いことではあるが、トータル・コントロールに対応するタイポロジーは建築家からあまり注意を払われていない。施設の壁の内側をよりよくすることは可能だ。でもマジシャンはそのトリックを必ずしも完璧にやりおおせるわけではないのだから、おそらく私たちは社会におけるこうしたカテゴリに配慮する全く新しい建築をデザインするべきなのだ。


老若の再統合は人類の物理性能へ限定されるだけじゃない。高齢社会に対するより統合的なまなざしは、ゆっくりと浮上している。例えば、保存という問題は専門性の領域から既存の環境に対する統合的な見解へと、つまりいかにしてそれを私たちの必要性と擦り合せるか、といったところのものへと変化している。デザインにおいて「永遠に若い」ということに対する一面的で教条的な焦点化が、高齢消費者という増加するマーケットが調整されたマーケティング戦略を必要としているのにもかかわらず、認められる。「新しい」ものの時代の後、統合の時代は間近にある。社会的役割、年齢グループ、そして諸文化との間にある境界は曖昧なものになっており、その曖昧化は、統合に取り組む戦略としてだったり、より豊かな生活を導く方法としてだったりする。


社会の高齢化にともなう大きな構造変化によって、デザインや建築の立ち位置や役割は変化している。考案されるべき領域はいまだあり得、また必要とされてもいる。でもそれは緊急のことであって、集合的に個別化された野心や目的を再考することでもある。モダニズムのドグマは素材の量を供給することに関わっていた。そしてポストモダンマントラは個別化された表現だ。今や課題は他の基礎的な価値(この号に掲載されている『信頼のデザイン』の中でも掘り下げられている信頼だとか)の位置づけである。死が私たちを分つまで、しかしその一瞬まで、私たちはともにあるのだ。