序文の最後らへんに出てくるラカンの引用がどうにも分からない。具体的には「他者への欲望」という概念を建築へとスライドさせている箇所が。

「主体」は自己へとアクセスする際に「他者」が語る自己を経由する必要がある。これは鏡像段階における「主体」形成の名残とも言うことができるだろう。つまり「主体」と「他者」の差異を比喩的に「鏡」とし、自己が「他者」という「鏡」を経由して統一的な「主体」となっていくプロセスがそれである。そして名残として存在する「他者」を経由した自己認識のプロセスにおいて、「鏡」としての「他者」へと「主体」が自己の不安や恐怖を投影するのである。おそらくこの「他者」の位置に建築を立たせ、「主体」が投げかける不安や恐怖症といった文脈のうちに、逆に「鏡」として浮き上がる諸対象に焦点を当ててみようという意図なのだろう。事実ヴィドラー自身も「主体から客体へと強調点をシフトさせた」という旨を記している。

ただこれが「他者への欲望」となるとどういう意味になるのかが分からない。「『他者』が語る」と上のほうで書いたがこれは建築へのスライドにおいて捨象したほうがいいのかも知れない。つまりラカンの文脈において視覚的な点で自己を獲得するのみならず、聴覚的に「他者」が自己のことを語ることによって生まれる「主体」を「鏡」とすることも含意されていると思う。単純な「主体」対「他者としての建築」という構図でとらえた際にこの「語る」「他者」を見出すことが困難である。もちろん発話のみを指すのではなく脳内での言語化作業までも「語る」という言い方でカヴァーしているのだろうが・・・。あるいは論者によって言説化される建築が「他者」となる、とか。それならば「欲望の欲望」(コジェーヴ)になるのではないか。

ううむ、どうにもムズムズするのでしっかり読んでおこうと思う。