ジェフリー・イナバ「Volume序文」その2

1から続きます

コンテンツ・マネジメントのシステムと同じように、建築は環境空間や流通ルートを設計するテクノロジーを使いながら、情報やモノをコントロール可能な環境へとアレンジしていく。それは提示されたコンテンツの価値を具体化し、公共インターフェイスのデザインを通して訪問者の体験のためにその場の雰囲気をつくる。建築は体験の構成物であり、それは異なった形で存在するおびただしいコンテンツとの相互作用を必然的に伴うものであって、選択肢を、つながりを、更新を、そして人的な出会いや驚きをもたらすものである。そしてこの観点において建築とはコンテンツ・マネジメントの先駆けであり、運営上の青写真でもある。建築は私たちとデジタル素材との現在の結びつきを容易にし、建築から借りたメタファーはフレームワークのシステムを描写するために使用される。後に見ていく通り、いくつかの論考やインタビューでは、良かれ悪しかれ建築がいかにコンテンツ・マネジメントの陰にある考えを与えられに知識を与えつづけているか説明している。

続々と増大する量の情報が摘要でき価値を持つためには、淘汰、分類、解釈を必要とするからという理由で、コンテンツ・マネジメントには不可避的な需要があると議論されている。しかし現実にはそのサービスは問題を作り出すことによって正当化されているのだ。コンテンツ・マネジメントはコンテンツの生産を結果として招く。コンテンツを管理するサイトは、それらや他のサイトが集め加工する素材をストックパイルstockpileへと追加することで、しばしばそれをなす。コールハースのマンハッタンという初期の建築家が、自らが解決すべき任務だとみなした取り返しつかない過密状態を引き起こすことで、彼等の職業に対する必要性を妥当なものとしたように、コンテンツ・マネージャーはそれらを監督するサービス業の存在を必要とする、重度の量と冗長性を生産するのである。過剰渋滞のみが高速道路superhighwayを有効なものとし正当化し、そのインフラにオーダーを与えるだろうものは、その流出量もまたそれに影響を与えるのであって、効率的に機能するようそのインフラのキャパシティを要するのである。建築家と同様に、コンテンツ・マネージャーがうまくデザインするのは明快な空間の分配やナビゲーションの容易化ではなく、むしろ安定した環境をぼかす付加的な素材の刺激や非効率性、このケースにおいては隣接した商品、サービス、ニュースそして観点の継続的な導入をうまくデザインするのである。

ウェブサイトにおける情報管理と建築における過密状況の処理がアナロジーになっているところが読みどころ。参考文献はこちら。

錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)

錯乱のニューヨーク (ちくま学芸文庫)

コンテンツの管理運営が必然的に持ちうる生産行為を説いてます。ネット用語らしきものも散見されるので正直結構訳しづらい(ちなみにmaterialは「素材」と訳しておきました。)なかで、とりわけよくわからなかった「そのインフラに決定を下すだろう者こそ、その撤退もそれに影響を与える者であって」の原文は「the ones who supposedly give order to that infrastructure are the ones whose outflow also impacts it.」ここでのoutflowってどういうニュアンスなんだろう。それから、コンテンツ管理者も建築家も、安定した環境にチャチャを入れる刺激的だけど非効率的な要素の導入をうまいことデザインするよね、っていう今回最後の一文はかなりピリッと利いている。すごくうなづいてしまった。