Volume#5 Power FAQ訳 後半

Volume5巻「The Architecture of Power Part1」の序文「Power FAQ」の訳後半デス。ちなみにこの間挙げた新着状況は、現在ウェブ上で読めるVolumeテキストリストに変わっています。そちらもぜひご参照あれ

私は権力という問題にきまりの悪さを感じます。これは正常でしょうか?

エス。どんな建物にも伴われる幅広い社会的物質的資源を考えると、権力についてのちょっとした専門家になることによってしか力強い建築家になることはできないが、もっとも強力なデザイナーは彼らの仕事と権力とを直接的には関係付けられないものとされているはずだ。デザイナーはその主題をまるまる避けることによって権力の最も限定されたイメージを精力的に補強してきた。その一方で、私たちを取り巻く世界はその他のことについてほとんど語らない。それは決まりの悪いことかもしれない、でもそれを無視するのはもっと決まりの悪いことだろう。

どうやって力へ向き合うことができるでしょうか?

目を開くことによって。権力はひとつのイメージ、ひとりの人、ひとつの制度、ひとつの規制、あるいはひとつの出来事によっているわけではない。それは常に風景のいたるところに広がっている。権力は、新たな種の風景デザインへと非常に開かれた風景効果なのだ。

それはあまりにも大きすぎる仕事ではないでしょうか?

権力の問題を取り扱うことは、新たな重い責任を想定することを直接的には意味しない。それどころかたくさんの不要な荷重が打ち捨てられる。権力の問題は、潔白たれという建築家の職業的責任によってその荷を降ろされるため、あらゆるもののなかで最も機敏なもののひとつとなるかもしれない。

もしデザイナーが権力についての素朴さを日課的に装っているとしたら、彼らは権力を学ぶに当たってどのような立場を取るのでしょうか?

権力は人工物だ。デザインされたと言う意味ではいかなるオブジェと同じである。そして日常的でもある。権力は上から下へと流れていくのではない。建築家は被害者ではないのだ。彼らはどのような点においても権力の動力にアクセスすることができる―それを得るなり、諦めるなり、理解するなり、だめにするなり、あるいはそれを変えるなりして。より接近して私たちが自らを取り巻く日常世界を読み込むにつれ、権力の技術、効果、そして結果への理解により近づくようになる。そしてクローズアップすればするほど、私たちは自らが権力に晒されているだけでなく、私たちがそのまさに様態と器機であることをより多く発見するのである。私たちは権力を考える。私たちは権力を運ぶ。だから権力のデザインを読みそしてデザインの権力を読むことによって自ら備えておくべきである。自らの身分を知るというリスクを取らねばならない。

力は平凡なものでしょうか?

エス。力を神秘化すること、それはすでに力に屈服することを意味している。

まず権力は私たちが見ている風景のいたるところに忍び込んでいるということを確認されたし。そして権力の問題をおおっぴらに語るなんて恥ずかしいぜ、というスタンスが逆説的に権力のディテールを強化させているかもしれないという疑問をもたれよ。だから私たちが今見ている風景の、一見些細な部分へとクローズアップすることが必要だ。そしてその結果、私たちは権力にさらされているだけではなく、まさにその私たちが権力のシステムへと加担していることを知るのである。
でも最悪なのは権力を何か神秘的なものとしてしまうことである。なぜなら私たちが不可避的に立たされているこの入り組んだ立場から眼をそらすことになるからだ。自らを知れ。これが一番のメッセージだ。

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と、ちょいとまとめてみましたが、果たしてこれを問うているのは誰なんだろうか。