リサーチ・フォー・リサーチ#2


タフーリが言っていることもわかるけど、プロジェクティヴ(企図的?)でヴィジョナリーな見方は置いておいて、リサーチという側面から建築史(都市計画史)を眺めなおしてみようじゃないか、とある。ここで問題にされていることは、分析に重きを置き、かつての人々が直面した社会的状況を現在のそれとつきあわせてみることだ。「都市」に隠れた都市を探すこと。そういう野心的なところ。ではどうぞ。

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でも、もしかするとタフーリが出発点とした予測は間違っていたのかもしれない。モダニズム運動における主な議論は、事物を変化させること、そして近代運動を、最初には同一のあるいは類似した諸問題に直面する個性の集合として認めようとすることについてのものであり、それらに対する解決策を見つける必要があったのだ、といった考えから少しわきにそれたとしても、未だに多くを学ぶことができる。とりわけ現代の建築史において、視覚的な側面のみが常に異なった多くの理由から強調され批評されているようにも見られる。しかし視覚的なプロジェクトは常に失敗することになる。おそらくそうしたプロジェクトが直面している現実を理解するための、そしてリサーチへと焦点を当てるための手段としてそれらのプロジェクトを見ようとするとき、19世紀から続くこれらプロジェクトを乗り越えんとする過失、まさにその悲劇的運命は消えている。それらを一人の人間やひとつの体によって進められたのでも、ひとつのイデオロギーやその他によって進められたのでも決してない近代化の集合的過程における総合の個別的瞬間として見るとき、それらプロジェクトはちがったものとして認められる。言語における言葉や文節がそれのみで繰り返されるのとは異なり、むしろエッセイ、ランドスケープ絵画、写真、ある時代のある瞬間がとらえる都市のスナップショットが、建築というメディアを使用する。プラン、断面、エレベーション。そのとき私たちにとって興味深いのは、プロジェクティヴで視覚的な側面ではなく、分析的な側面だ。私たちはこれら「視覚的」な都市(この語を使うのもこれで最後だ)に隠れている都市を探しているのであり、あるいはそれらによって覆われた都市を探しているのである。おそらくこの分析は私たちが今日リサーチを行うことを手助けしてくれる。それは、現在起こっていることに文字通りその方法を適応することによってではなく、批判的にその分析を分析し私たちが現在直面している諸問題とそれらとを比較することによって。時に100年前の人々が直面していた問題と対立するほど異なっている場合ももあるだろう。それは異に難しい。なぜなら、ウルリヒ・ベックも書いている通り、今日「社会的結束を与えんとする新たなコンセプトは、個別化、多様性、あるいは懐疑主義西洋文化に根付いている、ということを認めることから離れなければならない」からで、その時点では集合や大衆は未だ問題にされていない。


これはまさしく私たちがこの本でなさんとしていることだ。タイトルが述べている通り。リサーチをリサーチする。20世紀の都市計画史をリサーチの歴史として書き換えんとするほどに野心的な仕事でもある。このリサーチにおいて、すでに広く知られるようになった都市の提案や理論を三つの問いに基づいて分析している。ひとつ、発見されたものとしての現状への関心に基づくこれらのプロジェクトがどのようなリサーチなのか?ひとつ、それらのプロジェクトはどのような政治的官僚的システムを実現のために仮定しているのか?ひとつ、それらのプロジェクトはどのような技術的状態を仮定しているのか?こうした分析は、視覚の歴史というよりは、むしろ現実の解釈や外挿の歴史であるところの歴史へといたる。そのプロジェクトは歴史のはじまりではなく、歴史に組み込まれているのだ。建築家はちょうど近代性あるいはモダニズムの要因や誘発というよりも、近代化という持続的なプロセスの「波にのるサーファー」のようなものだ。そしてもちろん、サーファーのように、彼らは何度も何度も波から落ちる。でも時々しばらくの間だけその頂点にとどまることができる。その途上でなされた多くの発見はいまだ私たちの環境をつくっている。このことが第四の問いをもたらす。それらプロジェクトから実現されるものは何か。建築家自身によって、あるいはその取り巻きによって。あるいは、なぜそれらは実現されないのか。