Volume#20 Fact and Fiction前半

volume20号「ストーリーテリング特集」から報道批評家ジェイ・ローゼンインタビュー「事実と虚構」の訳。聞き手はジェフリー・イナバとタレン・モンゴメリ。8月27日にRADでREADTANKをするので、その準備です。ひとつのエントリには長過ぎるので、前半と後半とに分けて、後半ではなぜこのインタビューが「建築雑誌」に、あるいは「Volume」に載ってるのかということ、それを踏まえて考えられる話題なんかを考えてみたいと思います。


まずイナバ氏による概説がくる。こんな疑問点から、こんなことを話してますと。

ストーリーをどのように伝えるのかをジャーナリストはどうやって決めるのだろうか? あるひとつのストーリーをレポートするときに彼らが負う責任とは? そしてどの程度彼らは大衆の関心を書くのだろうか? ニューヨーク大学でジャーナリズムを教えるかたわら報道批評も行うジェイ・ローゼンはこれらの問題を、ジャーナリストは大衆を表象するのか/つくりだすのかに関し長年にわたって行われている議論を引き合いに出して説明している。曰く、「大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならない」と。この議論に付け加えるべきは、市民ジャーナリズムの到来、そしてとりわけ新たなストーリーをつくる際の大衆の役割についての議論である。ローゼンは、語られたストーリーに関するジャーナリズムの新たなモデルが生み出す問題点を正確に指摘しながら、伝統的ジャーナリズムに関する方法論の風景を通してヴォリュームをガイドする。


ジェフリー・イナバからの質問。

「ジャーナリストは何のため?」という記事において、あなたは大衆の脆さを指摘しています。大衆は不変の実在物ではありえず、ゆえにその延長上で考えれば「大衆の関心」など安っぽい言葉だ、とあなたは言っているように思われます。「大衆」を規定する際の報道の役割とはどのようなものでしょう?


ジェイ・ローゼンの答え。報道は大衆にどう向き合うべきか。二つの考えをここで提示。

この問題は、ウォルターリップマンとジョン・デウィが行った大衆の性質に関する議論、ならびにジャーナリストである私たちは大衆をただ表象するだけなのか、あるいは不可避的にそれを生み出してしまうのか、という議論へとさかのぼります。リップマンの主張はこうです。大衆を見てみれば、彼らが極めて限定的なキャパシティしか持っていないことが分かるでしょう。これにはそうだ、とも違う、とも言えますから政治家を引き入れることも追い出すこともできますが、究極的にはそうした認識は操作されたものなのです。なぜなら不可避的に大衆はその他のこともしているからです。彼はこの件に関してリアリストたろうとした。一方でデウィはこう言います。「賛同できかねますね、ウォルター。話は分かる、でも君は何か見過ごしていませんか。私たちは今までになく大衆を生き生きさせるためのより良きツールを持っています。そしてそれこそ私たちがしていると思われていることなのでは。だから君ウォルターも、そして私も、それから芸術、文化、教育、政治に関わっているすべての人々も、大衆をどうやって生き生きさせるのかをずっと考えていかないといけないんじゃないですか。」それは情報の問題というだけでなく、芸術の問題でもある。なぜなら人々をうまく関らせることは、私たちが解決しなければならない社会的問題でもあるからです。だから私にとっては、そう、大衆は見つけられることを待っているものであり、私たちが目に見えるようにしなければならないのです。そうするための客観的な方法などありません。それはひとつの芸術であり、コミットメントでもある。思うに、真に優れたジャーナリストは真実を語ることに気を遣う人であり、彼らが伝えようとするストーリーに、そしてそれが効果をもたらすということに気を遣う彼らは、こう言います。「大衆を起こしにいく」と。デウィが言わんとしたことはつまりそういうことです。


イナバさん。報道は「大衆を起こす」けれども一方で公的な責任も負う、じゃあそのとき報道は情報をどう扱うべきなんだろう?

報道には公的な責任があるとのことですが、ストーリーを語ること、そして事実や出来事をレポートする際、それはどのように起こるのでしょう? ジャーナリストは大衆へと情報を伝達するため、包括的かつ公平にレポートをする、ということをこの責任は示唆しているのでしょうか、あるいは大衆の関心とは何かをある程度解釈し、それに応じてストーリーを組み立てる必要があるのでしょうか?


ローゼンさんの答え。状況をどの程度表現するのかによって人のふるまいは変化する。これは日常的に起こりうることであり、その制限に悪意がある場合報道はそれを正す必要がある。

ジャーナリストは人々に何が起こっているのかを知らせる責任を持ち、私たちに真実を語る責任を持っています。それは公平性を必要とすることです。普段の生活からも分かることでしょう。ジャーナリストにならなくても分かる。もしあなたが議論の多いミーティングへ行くとしましょう―そしてあなたが見てきたことに利害関係がある他の人々は参加できないとしましょう。彼らはどうだったかとあなたに聞いてくるーそうなると、あなたは彼らに正確かつ公平に報告する責任を持つことになる。でもあなたには他の責任もかかってくる。人は起こったことだけではなく、彼らがどうやって事に関われるかも知りたいからです。彼らの参与と、状況に影響を与える能力は、情報に対する彼らの関心に関係があり、それら二つの事がらの間には重要なつながりがあります。

それから、状況がうまく表わされているがために、価値が対立し、報道もどちらかの側につかなくてもよいような通常の政治的状況がある。ただ、あなたが今いるプレイヤーに演じ続けさせようとすれば、少なからずのことが表されないまま残るでしょう。というわけで明らかに報道は状況をよりよく表すという義務を負っている。そして、真実を正しくないものに仕立て上げようと強力なプレイヤーが自ら事実の積層を取り壊そうとするような他の例外的状況もある。そのようなときには、ジャーナリストには関与する義務があるーもっと強い言葉でいいましょう―その行いをひっくり返し、あるいは人々がそれをなそうとするためにペナルティを課す義務がある。


一方タレン・モンゴメリさんからシンプルな質問。

市民ジャーナリズムとはなんでしょう?


ローゼンさんの答え。かつて観客として知られていた人々が情報を伝達する側に回り得る、という事実についた名前であり、それ以上のものではない。

ご存知の通り、偉大な報道批評家A・J・リーブリングはかつて報道の自由についてこう語ったことがあります。曰く「報道の自由はそれを所有するものに帰属する」と。そしてブログは誰にでも報道機関を所有できることを意味しています。それはひとつの転換であり、「市民ジャーナリズム」は単にその事実へ名前をつけただけです。人々はツールを持ち、故に彼らは報道の力を持つ。市民ジャーナリズムは「観客としてかつて知られていた人々」がそれらのツールを取り、お互いに情報を与えあうためにそのツールを使用する時代です。さて、ではそれはプロとってどんな意味をもっているのでしょうか? 報道にとってかわるのだろうか? それはまったく違った問題です。