Volume#20 Fact and Fiction後半の前半

思いのほか長かった。


モンゴメリさんからの質問。プロ/アマジャーナリズムを比べてみんなどんなこと言ってるんだろう?

市民ジャーナリズムとの比較によってプロのジャーナリズムを語る支配的な議論とはどのようなものですか? そしてあなたの見解は?


ローゼンさん。長弁舌。プロ/アマの違いを3点から語る。それは全く別物で、レストランと八百屋くらい違う。市民ジャーナリズムが参与から生まれ、また別の参与を生み出すためにあるという指摘には注目。

そうですね、争い戦っていく敵対者と見なすべきではないでしょう。それは純粋なフィクションなのです。実際に何が起こっているのかに関する正確さはほとんどないでしょうが、むしろ次に述べるようなことこそ重要な問題だと言えるのではないでしょうか。


1、私たちには検証された情報が必要です。プロのジャーナリズムが存在する最も重要な理由は、もしそれがなければ存在しなかった検証システムを代表しているからなのです。彼らがなすことの本質は、単に彼らが何かを報告しているというだけではなく、彼らが検証可能なものを報告しているということです。


2、いくつかのストーリーには誰かが常時張り付いていなければ見られないようなもの―例えば調査ジャーナリズム―があります。事実を見いだすためには、それに張り付いてくれる何者かが必要となり、それがプロのジャーナリズムを肯定することになるのです。これが当てはまるかどうかは物事によりますが、くっきりと分かれているわけです


3、私たちは大衆そのものへのアクセスを与え得る人々―役人も含む。というか、とりわけ彼ら―を望んでいます。ただ彼らが大衆全体へのアクセスを与えることは実際的ではないので、問題を提示してくれる代わりの人物を私たちは望むわけです。明らかなことですが、実際それはそうしたアクセスを持つ人々への肯定になる。なぜなら一定のストーリーはそのような方法でしか得られないからなのです。


いくつかのストーリーはアクセスを必要とし、いくつかのストーリーはそれに張り付く人を必要とし、私たちは検証を必要とする。そしてこれらすべてはリスキーなものであって、プロのジャーナリストが「待って!これは失えない」と言っているということに限って言えば、私は彼らに対して完全に同意します。彼らの側についているし、同じ陣営にいる。


市民ジャーナリズムの何がいいんでしょうか? そうですね、多くの市民ジャーナリズムは使えません。ジャーナリストが私に伝えようとする議論の少なくとも50%は、「私たち」のしていることに市民ジャーナリズムが取って代われない意見に関わっていますし。うーん、いや! 完全に異なった活動ですね。それはこういうことでしょう―まあ別の書き手が言っていたことですが―農家市場はレストランに取って代われない。というのも、人々は農家市場に行きますが、それは彼らがレストランに行かないということではない。彼らは全く異なった理由のためにそれぞれに行きます。その二つが重複も競合もしない、というのはそういう意味です。


では市民ジャーナリズムのいいところはなんでしょうか? 必ずしも知る必要はまだないでしょう。というのも私たちはそのための良い構造をまだ打ち立てていないからです。でもひとつ挙げるとするとーブログにも言えることですが―問題に対して本当に関心がある人々にガイドしてもらうことで、その問題についての新しい事柄を知ることは、例えば、ロサンゼルスタイムスに依存するよりは実際いい方法だと思います。市民ジャーナリズムのすばらしい点は、参加から生まれてきたというところであり、また別の人の参加のために生み出されているということです。ブロガー―別の新たな術を持つアマチュアーなんかはまさにそうで、技能を前面に押し出してくれている。彼らはリンクと共に書くことを身につけた者なのです。つまり彼らは―広い―ウェブの自由を手にすることを身につけたのであり、ブログを読みやすくするという形を通して十分な訓練を自らに課すのです。


イナバさん。プロ/アマの区分じゃなくて、その混合についてどう思うかと。

ジャーナリズムのハイブリッドな形態を語ってきましたが、それについて何か。


ローゼンさん答えて曰く。

私は、人々が「プロ-アマ」ジャーナリズムと呼ぶものに興味があります。究極的には最も強い形態や最良の発見はアマチュアのネットワークを受けて仕事をなす「プロ」のジャーナリストによってなされるでしょう。それはスマートウェブツールやアプリケーションを通じてつなげられ、そして新たな情報を生み出すように動機付けられているのです。