Volume#24 Expanding Environmentalism
次回READTANKでその序文を読む(予定の)ヴォリューム24号「カウンターカルチャー」特集は三部に分かれていて、「技術」「環境」「コミュニティ」がそれぞれのテーマになっている。各部にはC-Labによる概説が掲載されており、「Expanding Environmentalism」(そのまま訳すと「環境保護主義の拡張」)は「環境」部のそれにあたる。
この文章で述べられていることはこんなことだ。
・volume:counterculture?
- かつてカウンターカルチャー的意識だった「環境への関心」はとてもポピュラーなものになったけど、大衆による「気づき」が増えても実は具体的な諸問題への解決につながらないんじゃない?
- なぜなら現在「環境への関心」を満足させるような仕事の数々は、技術的な帰結しかもたらしていないから。環境をなにか個別の独立した対象として見てしまうことで、政治経済文化的要素との連関が意識されなくなってしまうのだ。
- 建築の領域でも同様で、「エコビル基準」みたいなことが多く叫ばれるようになってきているが、環境に関する議論の言葉が定義できていないがために、それだって技術的な「好み」くらいのことしか語られない。
- だから技術的基準を先に立ててそれが可能になる方向を探るのではなくって、もっと政治的文脈を意識した議論ができるように言葉を規定することはできないのかしら。
皮肉な話、環境運動はやり方次第で自分で自分の首を絞めることにもなりかねない。
60年代から生まれたコミュニケーションやコラボレーションの文化は、より生産的な議論につながる意見とアプローチとの違いを明言しそこなうがために、気候変化の重大性についての広く公共的な合意へと至るにもかかわらず、皮肉にもそれが行動を抑制してしまう。環境的な危機に関する「気づきを促そう」キャンペーンの勝利は、環境運動をそれ自身の成功の犠牲者にする。
環境問題は社会問題のひとつに過ぎない。だから、それを含みこんだ上で対処すべき問題に優先順位をつけ、今「環境保護」の名の下につぎ込んでいる莫大なお金のうちのちょっとでもいいから具体的対策に回すことができたら状況はよりよくなるのに、というビョルン・ロンボルグの極めてまっとうな意見が頭をよぎる。環境保護は、何かのためになされるのであって、それ自体が目的になるべきではないのだ。
- 作者: ビョルン・ロンボルグ,山形浩生
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2008/06/28
- メディア: 単行本
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さて、「議論の語を規定しよう」とあるが、じゃあそれって具体的にはどういうことだろう? ここでヴォリューム18号「アフターゼロ」特集の序文がヒントになるかも。この号では「サステナビリティ」という考え方を俎上にのせながら、建築家の職能が今後どのようになっていくのかを考えている。
「自然」や「人工」、「保護」あるいは「共生」、「開く」「閉じる」、「隣り合って暮らす」、「ともに暮らす」ということの意味を明らかにすることで、建築はもう一度空間の政治的側面へと関与するのだ。
ここ最近の(落ち着いたけど)すンごい暑さはちょっと前なら「地球温暖化」の大合唱を呼びそうなのに、随分と静かになった。一方でエコカー減税の終了は大ニュース。みんなの財布に直接響くこうした例や、企業の優位性にかかわるCO2何%削減は、まさ「エコ」の裏にある何かがドライブさせている。それ自体を「偽善」だと批判するんじゃなくて、エコの前にまず何をなすべきかを考えよう。それが単なる消費活動に終わらず、環境にも人間にもよりハッピーなストーリーが導けるとしたら、そのとき「Environmentalism」はうまく拡張できるんじゃない?