dezamについて

1930年から1933年、京大前建築科学生の中枢として存在した「デザム」という集団がいた。その中に西山夘三も浦辺鎮太郎(当時20歳前後)も名を連ねていた、ということで有名な集団だが、それ以上の情報はウェブ上ではなかなか見つけづらい。


「鉄のごとき共同精神を以て客観的情勢の鋭き認識の下にあらゆる建築部内における指導的役割を遂行せんこと」(dezam第6号)を目標にしたデザムは、集団名と同じ名前の機関誌「dezam」を発行し、勉強会をおこない(コルビュジエ批判会とか)、展覧会(卒業制作展のようなものかしら?)を企画する中で「団体として動くこと」の強みを獲得しようとしたのだった。ただ、「その強みを獲得」した向こう側に彼らが何を見ているかは、残念ながら、はっきりと読み取れなかった。

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一時期には70名近くを有していた京大の超人気建築集団デザムは以下のように組織されていたようだ。

  • 実行委員
    • 研究部
      • 意匠研究部
      • 構造研究部
    • 読書部
    • 雑誌部
    • 写真部
    • 会計部


どこがどういう働きをしたのかは、残念ながら名前から推測するほかない。

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さて、では機関誌。機関誌「dezam」の内容はおおよそこの三つにわけられる。「論文」「翻訳」「日誌」。実物は「NPO法人西山記念文庫」に行くと見える。BOX26と27に仕分けられている。BOX云々というのは、行けば分かるはずだ。おそらく7号まで発刊されただろう「dezam」であるが、1、2号はどうもガリ版刷りの回覧用のモノだったようで、それが理由かどうか分かりかねるが資料として残されていなかった。

  • 3号:1931年
    • デザム日誌 うざう
  • 7号:1932年(活字になりました。これまでは手清書)
    • 『建築と建築生産ー建築の正しき把握のために』


西山夘三を調べていたので彼の書いたものしかチェックしておりません。あしからず。

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しかし残念なことに、共同の精神を追求する彼らではあったものの、ストイックな一部から見たとき、デザムという集団の理念が次第に薄弱になっているのではという思いを振り払えなかった様子。その甘酸っぱい思いが(年表形式なのに)行間からにじむ「デザムとは何か」という文章が、「建築科学研究会機関誌『建築科学』」1933年6月号に掲載されている。古今、学生団体とは常にこのような形で終わりを迎えてきたのだろうか。


語気が強く、言い回しが厳めしいものの、内容を大幅に要約すると「もっとみんなしっかりしようよ!」としか言っていない、強い内部批判が見舞われる第6号の日誌はとりわけ見所が多い。一ページまるまるを使って、


共同の精神「製図は製図室で」


と(レタリングばっちりで)書かれているのには、建築学生の怒りポイントは70年80年たっても変わってないのではないか思わせる力強さがあった。でも一方で、なんだかんだ言ってきっとデザムって楽しかったんだろうな、と思わせるのが、「うざう」氏による日誌のこんな下り。

北白川より百万遍に向かいはじめる。かぎやへの行進!(中略)新海君の提案「デザム」が可決された。そして彼はタンパク質を出すことを恐れはせずに、蟻の如くその甘き物に唾液を注入した。我が羊羹王!(中略)デザム総会於百万遍かぎや(中略)―六月二日、国際新建築会議への参加のための座談会。七時より、於出町スター食堂。


「我が羊羹王」こと新海悟郎氏はデザムにおいて、主に映画館の設計について音響との関係からアプローチするという面白そうな活動を行っていた。行進するほどみんなが足しげくかよった(日誌の他のところにも度々出てくるのだ)「かぎや」は、現存。「スター食堂」のほうも、彼らが通ったお店自体は現存していないが、会社はまだ続いている。


もし原本「dezam」を当たられる方がいたら、その広告欄にも注目されたい。進々堂の広告が入っているのに京都人は感激するだろうし、さらにすごいのは1912年に開店した京都大丸が広告を打っていること。