Volume#24「YES, BUT」後半

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カウンターカルチャーにおけるドラッグの使用を論じた文章からなんでこんな話になったのか。そのときのポイントは、ドラッグの使用、つまり個人個人の内側へともぐりこんでいく内省の流行は、外側から押し付けられる規制(例えば、人を人としてではなく計量的な労働力としてヒーコラ働かせる労働環境だとか)支配的ロジックへのカウンターになっていたのだった、というところにあり、「大地へ帰れ運動」のようなある理念の共有をベースにした集合のあり方を相対化していたのだ、というところにあった。


カウンターカルチャーが生み出した個人主義はいまやテクノロジーの進化によってさらなる加速を見せている。それにどう介入することで、これまでのような集団(共同体)を塊としてみなす都市計画の方法論に風穴を空けられるのか、というアイデアが前半で紹介されていた(「グリーン運動」への嫌悪は結構ポイントだ)。まさにこの構図は上で語った「ドラッグ使用のカウンター性」と類似の構図として見ることができるんじゃないだろうか。で、後半はその延長で彼が進めるシンクタンク「WHY FACTORY」についてのアイデアが語られている。

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イナバ

あなたは自らのアプローチを革命的なものというよりも進化的なものとして言い表しています。将来に目を向けることのみによって、どのようにプロフェッションのための新たなプロトコルを提示するのでしょう? そしてどのようにして過去の運動や、とりわけ60年代のカウンターカルチャーを認識し、それに反抗するのでしょう?


マース

時には過去のモニュメントを見ることです。そして、60年代に生まれた、きわめて果敢だった世代に目を向けることが重要です。ただ、『Spacefighter』の中で語っているように、後ろを振り返るレトロ性は嫌いです。60年代の一部ではなかったことをどれだけハッピーだと思っていても、おそらく私は用心深いのです。接頭辞「再」が嫌なのです。再=解釈、再=新、再=交渉・・・「再」はすべてを台無しにします。思うに「進化的」という言葉はベターなゴールであって、それ以前にあったものを割り引くことなく前方に横たわる道筋の評価を示唆するのです。私たちは「Why Factory」で私が言うところの「啓示的な技術」を使って自らの考えをテストします。自分たちの船がどう進んでいるのか、そしてどこが漏れているのかを見るにつれ、社会はよりいっそう分裂しつつある。インスピレーションは革命的アイデアにあり、ということには意識的ですが、接頭辞「再」を使わずにそれを実践すること。ほとんど僧侶のように、進化を示唆する言葉に努めて集中しています。


クラスナー

デルフト工科大学と共同し、MVRDVが運営するシンクタンク「Why Factory」の意図をもう少し話してもらえますか? 理論的かつ実践的であることを明確化しているこの組織をどのようなものにしていきたいと考えていますか?


マース

「Why Factory」は使える科学、コミュニカティヴな科学としての議論に集中することを目指しています。繰り返しになりますが、「再」の逆をいきます。つまり単純な「e-」。周縁的なるもの、好奇をそそるもの、そして知られていないものにとどまることであり、これこそきわめて緊急なことなのです。「なぜ性why-ness」はある意味で60年代世代に対する答えです。すなわち論証に関してではなく、美学に関して―ザハだとか―戦った世代の影響を調整する必要がある。理論的なるものに対処すればするほど、私たちの世代は論証に熟練していきます。「Why Factory」で私たちは、未来を想像することに付随する懐疑主義へと応答するために制約や変数を適応する。かなり説明的なのです。私たちは既存の都市をのみ見て変化をテストするのであり、ソフトウェアの使用は都市の隠れた知を開示するためのツールとなります。


イナバ

あなたはおそらく他の建築家よりも一層、新たな技術の使用を通して実験的な都市計画を実現するための実践に関与しています。それと同時に、教育者としてあるいは「Why Factory」のディレクターとして、効果的に都市のスケールでデザインさせる極端な量のエネルギー生産の研究を行っています。その両者として、つまり実践的建築家そしてアカデミックな思考者として、思索や実験の役割とあなたはどのように関わっているのでしょう?


マース

『Spacefighter』出版後、私は以下のようなことを証明しようと務めました。私たちが提示するソフトウェアが実現可能なのは、それがリアルでありもっともらしい道具であることを論証するためである、ということを。そうやって生み出されるものはより多くの時間を必要とします、市場の要求によって純粋にドライブされているわけではないからです。まったき理論家なんてまっぴらだ、これは建築家の性です。もちろん、都市計画における自らの理論的な欲望は、実際に実現されうるものよりも速い時間軸へと投げこまれます。故に「Why Factory」に持っている私のスタジオコースでは、実践的な状況を革新へのきっかけとすることで、間髪を入れずに―その場での―理論をテストしています。これらテストの瞬間がきわめて重要なのです。もっとたくさんするために長生きしたい(笑)ですし、より広く行い計画プロセスへのデータを増やしたい。「Evolutionary City」には参加してくれる、革新を望む、あるいはデザインを導いてくれる多くの人々が集まり始めました。アプリケーションをテストすることで、集合的な言語や計画デバイスが生まれると思います。


イナバ

あなたの考えの多くは、進んだ技術を理解しそれを適応することによって生起する、前進のさせ方に関する議論に基づいています。技術と美学との関係とはどのようなものでしょう? 美学はその分野の進化にどのような役割をなしているのでしょう?


マース

ネゴシエーションプロセスの予期せぬ結果は、それが余剰をセレブレートするがために美学であり、また美しいのです。美の純粋な魅力は変化を促進します。美学はこの意味において強力な役割を担っています。思うに、ここにはその美学を建築へと総合しようという意図があり、しかしそれは技術的に十分進んでいるわけではない―つまりいまだ革新的ではないのです。ザハ・ハディドの建築は美しいーまあそのコピーもそうでしょう―しかしそれがさらなる革新にどうつながっていくか、あるいはそれがどう理論的な連続性に位置づけられるのか、私にはさっぱり分かりません。私が言っているのは、建築を進化的意図のなかに位置づけるために前進という考えを発展さよう、ということです。これは建築により深い批評を導入するためにありうべき課題です。


クラスナー

あなたが規定した思索的戦略へと批評を差し挟むためにはどのような提案をなすべきでしょう? 実験から論証への道筋はどのようなものでしょう?


マース

68年世代に対応させるように、私たちは「The Why Factory」が具体化する「もし〜なら what if」世代というものを考えました。カウンターカルチャーは実験を成功戦略にしました―面白いことに、今やみんなプリツカー賞を受賞している建築家世代にぴったり当てはまるのです。美学や技術的進展を再認識する思索から理論的進化に次なるステップ―「Yes, But うん、でも」世代ーを提示する。ある意味それが「Evolutionary City」がどういうものかを語っています。