Seeing Like a Society Interview with James C. Scott後半


前半はこちら


ジェームス・C・スコットインタビュー後半。社会設計という大きなレベルの前半部に対し、後半部からは都市や生活といったより身近な話へ。プロ・ジェイコブスの分かりやすい「界隈」擁護だけ読んで溜飲を下げるのではなく、その後の「スコットのアナーキー健康法」以下の「えっ?えっ!?」っと思わせずにはいないくだりまでちゃんと咀嚼したいところ。この文章は「オルタナティヴな人間たるもの一生で一回くらいビッグなブレーキングローしなきゃいかん!」から「そのために訓練しとけ!」というアナーキー的生き方のススメでした!!(え?)「お前は飼いならされた羊のままか? リアル羊のラディカルさを取り戻すのか?」という最後の問いかけがトゥーワイルド。

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エリック・ゲーリットセン(Eric Gerritsen)
さて、では都市へと話題を移していきます。計画者や人々が実際に都市へ変化をもたらせるような大都市の設計やどの程度それを設計するのかに関して、あなたはどのような見解を持っていますか?


ジェームス・C・スコット(James C. Scott)

アメリカ全土で都市リニューアルのために出される一人あたりの政府補助金額が最も高い、ニューヘブンやコネチカットといった都市で教える機会があるのですが、彼の地ではそんな計画が都市が破壊されてしまうまで行われています。都市計画の20年間に、彼らは大きな移動を二、三回している。ニューヘブンは政府による都市計画がうまくいかなかったテストケースだと言ってもいいでしょう。ヴィクトリア期のことわざに「三回の引っ越しはすなわち死」というものがあります。人々が根ざし、友をつくり、日課をこなす近隣からひとたび彼らを引きはがしてしまえば、たとえそれが良き近隣でなかったとしてもその移動には多大なる社会的コストがかかる。人々を動かしたはいいが、場所に全く根を降ろさないという反応だってあるでしょう。それくらい痛みは大きく、再度腰を上げようなんて思えなくなってしまう。ジェーン・ジェイコブスはこの主題に関して1961年に『アメリカ大都市の死と生』という優れた本を書きました。彼女はうまくいっているコミュニティの原則のようなものに取り組んだわけです。都市計画家によってつくられたコミュニティではなく、安全で豊かな、そこで人々が暮らしたいと思うような、時の経過の中でつくられうまく回っている近隣に目を向けた。そしてジェイコブスは「非=スラム化」というコンセプトを紹介します。すなわち、ある地域を均し徹底的に建て直すというハイ・モダニスト的な「スラムクリアランス」ではなく、彼女は近隣の「非=スラム化」能力というものを考えていました。そこで彼女はこう言うわけです。もし人々が自らが暮らしたいと願い、そこなら安定した職が得られると思えて、自らのふるさととしてよりよくなっていくと信じられるような地域に住むことを許されたら、その近隣は「非=スラム」そのものである、と。不幸にも、ほとんどのコミュニティはゆっくりとした再建のための十分な時間がありません。そもそもいかなる都市計画者もうまくいくような近隣をつくることなどできなかった。一度たりともね。ひとりの都市計画家に期待できる最大のことは、うまくいっている近隣の働きをアイデンティファイすることと、それを保存することくらいです。それを払いのけて壊してしまうのではなくてね。


EG

社会設計に対するあなたの批判は自由市場の口実だとされており、あなたは自称アナーキストです。このことについて説明してもらえますか?


JCS
『Seeing Like a State』を、フリードリヒ・ハイエクマイケル・オークショットといった人々について語るための言葉にだけ反応して、右翼的な本だと見なす人もいます。が、そういう難癖に対して私はこう答えます。巨大な資本主義企業が、国民国家がまさにそうであったように、いかに標準化へと頼っているのかについて書を著しましょうか、と。マクドナルドのマネジメントやコントロールのツールを見てみるとよくわかるでしょう。国民国家との唯一の違いは、標準化を利益という形でペイするものにしなければないくらいのことです。


他方で、アナーキズムというカテゴリで私を縛り付けたいと考える人もいます。私はヒエラルキーなき相互依存だとか、極めて複合的で集合的な調整をいかなる国家の関与もなく長期的に達成するだとか、そういうアナーキストの考えにひどく感銘を受けているアナーキストです。東南アジア全土に農業用地をつくる、ということを例にとってみましょう。私はかつて生徒に「スコットのアナーキー健康法」なるものを説明したことがあるのですが、個人的にはその法則に頼って生きています。人生にはいくつかのポイントで大きな法律違反しないといけないときだってあるでしょう。すべては状況次第です。だからその瞬間のために丈夫でいなければなりません。そういうわけで私は毎日あるいは二日に一回くらい法律違反に専念するわけです。


EG

あなたは現在、国家はなぜ「おとなしくない人」に寛容でないのかをリサーチしています。これは社会設計の限界に対するリサーチとして、どの程度斬新なものと見られるでしょうか?


JCS

国家はオルタナティヴな生を選んだ人々との関係をまったく想定していないかに見えます。当の人々がベルベル人だろうが、ベドウィン族だろうが、ジプシーあるいはホームレスだろうが、彼らは最も古い国家プロジェクトすなわち定住化を妨害するわけです。


そんなに前のことじゃないんですが、私の学生に足を折ってしまった者がおり、彼はその治療の時間を使ってニューメキシコアルバカーキでホームレスパーソンとして生活することを決めました。二週間、彼はゴミ収集箱から物を集める年長のホームレスパーソンの後を追っていました。そしてその学生は、都市の狩猟者=収集者としての生にまったく感銘を受けてしまったわけです。ホームレスの男はストリートで淋しげなアルコール生活を送っているような人ではなかった。むしろ都市についてびっくりするほど多くのことを学ぶことができる、信じられないほどのサバイバルスキルに溢れた人だったのです。


もしうまくいくような社会設計に興味があるのならばこう思うのではないでしょうか。このアプローチを真剣に考えてみてもいいな、と。都市にいる貧しい人、ホームレスの人に対する都市的なサービスを任されたとしたら、まずはこうしたことをはじめたらどうでしょう? 数週間でもストリートで生活してみては。そして自らの部署で働くすべての人に対してもそれをけしかけてみては。


EG
あなたはリサーチもすればもの書きもする・・・羊も飼っている。何を学びましたか?


JCS
羊は愚かさと服従のメタファーとして使われます。やれと言われたことをやり、群れて動き、いかなる個性も持たない人、そういう人を「羊になった」と言ったりする。でも動いている野生の羊を見たことのある人なら、羊は生来おそろしく個性的であることを知っています。人類は8000年羊を飼い、教えやすい個体ばかりをずっと選択してきた。今になってそれを達成した私たちは、ずうずうしくも羊をコケにして、彼らを私たちのようにしてしまった! 私たちは自らにふさわしい羊を得たわけです!