Publishing Practices by Michael Kubo その2

1から続く


今回、この2分の3部で件の「三区分」がすべて紹介される。

  • マニフェスト:議論を呼びそうな理論的ステイトメントの組み立てによってアジェンダを生み出す
  • モノグラフ:作品の集合を、実践の中で練り上げられるアジェンダひと組みへと組み立てること
  • 歴史:過去を再構築し、現在特定の作品が正当化されるような文脈を提示すること


最後の「歴史」の下りで、この論考のなかでもポイントとなる単語が出てくる。それが「カノン」だ。「canon」で辞書を引くといろいろな意味とともに、「真正と認められた書物」という説明が出てくるが、簡単に言えば「これ知ってなきゃモグリ」の「これ」にあたるもの、くらいの意味かなと踏んでいる。「界」という大切な考えを提示したハワード・ベッカー「アート・ワールド」議論を参照にした南後さんの「有名性」の議論(QC1で少しお話いただきました)とつながるところがありそうだが、「分野の中にカノンがある」という事実をどう考えるか、がこの部の最後あたりから語られる。

ざっと見たとおり、これらの建築家にとってマニフェストは単なるガイドに貶められるものではない。たとえそれが戦略的な観点からの効果を見越した上で意図的に議論を呼ぶようにしてあるにせよ、実践に従属したり、あるいはそこにのみ向けられるものではない。むしろマニフェストは、受け入れられ理解さるべき他の形の建築生産のための文脈を作り出そうとするものである―建てること(しばしば同一の作者による)が、書くことと出版することというマニフェストのような実践が回りまわって受け入れられるような、推論的な文脈を生み出すように。どちらも単に他者の実証でも、他者のためのガイドでも、ない。


20世紀建築書における第二の特権的な形はモノグラフだ。それは作品の集まりを、実践の中で組み立てられたアジェンダのワンセットへと統合しようとすることであり、理論的で議論を呼ぶ一連のステイトメントを統合することによってそのアジェンダを構築するマニフェストとは対照的である。形式としてのモノグラフは最初期のル・コルビュジエの例によって影響を与えられている。1929年から1965年にかけ8巻組で出版された、徹底的な形の「全作品集」である。そのジャンルに続く諸改訂は無数にある。マニフェストを語った後に、理論を通して「建築的発見が起こる」ことを立証するプロジェクトも含まれる(『建築の多様性と対立性』や、あまり想起されることも少ないが『ラスヴェガス』の初版。『錯乱のニューヨーク』だと、手法はフィクショナルな形や錯乱状態で反復されている)。書くこと、描くこと、そして建てること(描くこととしての建てること、書くこととしての描くこと、建てることとしての書くこと、などと平行して)のプロセスを思想的建築物としてのモノグラフへの翻案や、建築そのものの形へと融合させたピーター・アイゼンマン『カードの家』(1987)。そしてレム・コールハースとブルース・マウによる圧倒的な一冊『S, M, L, XL』(1995)、このモノグラフとマニフェストとの見境ない融合は、書籍の新たなジャンルとも量塊的な新しいフォーマットともなり、新たな形式の引き金となったのだった。


ここで取り扱う最後の書籍ジャンルは議論を呼びかつ効果的な歴史だ。議論を呼ぶような歴史は、過去を再構築しようとし―建築やプロジェクトの「カノン」を新たに位置づけようとし―、現在における特定の作品のあり方が受け取られ正当化されるような文脈を提示しようとする。事例としては、建築における近代運動のパブリックな歴史を提示し(あるいはそれとしてとらえられるようにし)ようとしたギーディオン『空間、時間、建築』(1941)の一般化せんとする野心から、より親密な(そして確かによりつつましい)情報源からの個人的なスクラップブックというようなアプローチをとった、アリソン&ピーター・スミッソン『モダンアーキテクチャーの英雄時代』(1965)まで幅広い。


ガイドについて語ろうとするとき、私たちはこうしたカノンとなった書籍について語る必要があるのだろうか? どうやって語彙を規定しよう? 慣習的な議論(典型的には、保護されるべき何ものかとしてのカノンに投資する人々によってなされる議論)はこう来る。ある特定の作品がカノン識別されること、これは分野としての建築という考えと密接に関連している、と。識別可能なカノンを持ち、それを名付けるという事実は―作品にカノンとしてのラベリングをし得るということだ―、他ならぬ建築という分野という考えの中心であり、そのために周到に規定されている(例えばそれは、他の実践の単なる部分集合じゃないということ)。つまり、もし建築は分野のためあるものだとされるならば、それはカノンを持っているはずだ。こうした定式において、分野は単にそのカノンを構成するだけではない。同時にこう言うことも出来る。カノンがその分野を構成しているのだと。この議論のさらなる帰結はこんな考えになるだろうか。つまり、書籍は単に建築家としての人々に意識されるだけのものではない、と。その排他的な役割に照らして言えば、人がカノンを知らなければ、その人は建築家ではない、となる。というわけで、カノンとなった書籍は単にガイドであることに貶められるだけではない(もちろんそのように働きはするだろうが)。分野そのものの構成部分でありその一組なのである。


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